• 待つ側から追う側へ、変わった作業の構造

    待つ側から追う側へ、変わった作業の構造

    AIで自分の仕事を楽にしようとタスクを作り、AIに投げる。

    使えるタスクを日々のスケジュールに入れておけば、時間ごとにAIはアウトプットを投げ続けてくる・・・。


    アウトプットはすでに出来上がっている。

    それを確認し処理し終わると、次のアウトプットが積み上がっている。

    そんな一日を続けているうちに、ふと気づいてしまう。

    自分は今日、席をほとんど離れていない・・・。

    AIがまだ存在していない頃、一つの作業が終わったら一息入れ、コーヒーでも作って飲んでいたのに。

    AIとの役割分担そのものは、はっきりしており、作るのはAI、最終確認するのは自分。

    これは決めた通りに進んでいるし、なんなら普通の人よりも結構上手にやれていると思っている

    なのに、自分のパートが「AIを待たせている遅れ」のように感じられ、楽して効率よくやるために使っているのに、逆に自分の時間が手一杯になっている。

    もちろん成果物としてのレベルと量は、これまでと比べると3倍以上のものにはなっているけれど・・・。

    おかしな話だ。

    分担が崩れているわけではないのに、なぜ遅れている気持ちになるのか。

    その理由をたどっていくと、納期を考えると遅れているのではなく、ただただ、AIの作業量に人間が追いついていないのだ。

    人間側の作業時間は、以前とまったく変わっていない。

    確認にかかる一件あたりの、時間も判断の質も劣化していないし、AIのおかげで別の新たな視点も生まれているから、クオリティがアップしながら、かけている時間は変わっていないと言える。

    変わったのはただ一つ。

    確認すべき件数の量で、AIがない時代なら、一つ作業を終えれば少し息をつけた。

    今は、一つ終える間に次が積み上がっていて、席を離れることすらできないし、一息つこうと思える瞬間が生まれてこない。

    ここで、比較の対象がずれていることに気づく。

    人は「AIの速さに人間の速さが追いついていない」と感じがちだけど、実際に起きているのは、速さの勝負ではなく、AIは自分のタスクを、こちらの都合とは無関係にこなし続けているだけで、待たせているつもりも急かしているつもりもない。

    急かされているように感じているのは、こちら側が、自分の処理能力ではなく、AIの生産量を基準にして自分を測ってしまっているからだ。

    人間同士の分担であれば、こうはならない。

    むしろ待ちのほうが多かったはず。

    誰かの作業が終わるのを待って、自分の番が来る。

    これはアマチュアレベルのキャッチボールを行っているという感じ。

    相手が、野球したことのない人だったり、小中で野球やっていました、草野球を今やってます、というような人ばかり。

    ところがAIが相手になった途端、待つ側から、常に追う側へと立場が入れ替わる。

    先のキャッチボールに例えると、相手がアマチュアレベルから、一気にプロ野球選手に変わったような感じ。

    しかも、こちらが投げ返す前にどんどん投げてくる・・・。

    もちろんそのタスクを生み出しているのは、ほかでもない自分自身だという点が、この状況をさらにねじれたものにしている。

    AIが賢くなるほど、こなせる量は増えるし、アウトプットの質が高くなる(AI登場時のおバカ加減が懐かしい・・・)。

    それは同時に、人が確認すべき量が増えるということでもあり、AIは人を楽にしてくれる道具のはずなのに、気づけば人を追い込む側にもなっている。

    この二つは矛盾しているようで、実際には同じ現象の両面にすぎない。

    「AIを使えば楽になる」という前提は、半分しか合っていない。

    楽になるのは、一件あたりの作業ではなく、楽になった分だけ、捌可なければならない件数が増える。

    仕事の内容も軽くなるのではなく、単純に密度とスピードが上がり、そのことに気づかないまま作業していくと、いつかパンクしてしまうかもしれない。

    なので、自分のなりのバランスとペース配分を自分で作り出さなければならない。

    AIに合わせようとしても潰されるだけだから・・・。

  • お得を追うほど増えていく、ポイント管理という見えない出費

    お得を追うほど増えていく、ポイント管理という見えない出費

    何か一つ買おうとするたびに、「どのカードが一番お得か」「どのアプリを経由すべきか」を調べ始めてしまう。

    ほんの数百円の差をめぐって、比較サイトを眺め、キャンペーンの条件を読み込み、どの組み合わせがベストかを考えているうちに、気づけば時間だけが過ぎていく。

    欲しいのは商品そのもののはずなのに、いつの間にか「どの支払い手段を選ぶか」が主役になっている。

    しかも、一度「お得」を意識してしまうと、次の買い物でも同じことを繰り返してしまう。

    新しいポイントアップの告知を見るたびに、アプリを入れ、カードを増やし、登録や設定、パスワード管理が積み上がっていく。

    枚数やアプリが増えるほど「ここはこのカード」「あれはあのアプリ」と使い分ける必要も増え、少しでも得をするつもりで始めたのに、その「少し」のために、頭の中のメモリと時間をどんどん差し出している感覚がある。

    ポイントが貯まる瞬間自体は、たしかにうれしい。

    数字が増えることで小さな達成感も生まれるのはいいことなんだが、いざ使おうとすると「せっかく貯めたのだから、もっと大きな買い物のときに取っておきたい」と思ってしまい、なかなか使うことなく、貯めることが主になってくることも。

    そのうち「悩む時間や管理の手間を考えたら、欲しいものは普通に買ってしまったほうが早いし楽ではないか」という思いもチラホラと・・・。

    少し見方を変えると「お金が増えない」のではなく、「管理の手間」という形で、すでに代償を払っているのではないだろうか?

    どのカードが一番お得かを調べ続ける時間、使い分けを覚えておくための注意力、明細や残高を追いかける負荷。

    レシートにはけっして残らないそれらを出費として考えた場合、果たしてお得なのだろうか?

    自分の感覚としては「労力ほど大した得にはなっていない」という思いの方が強い。

    だからこそ、今後は「欲しいものを購入することが最大の目的であり、ポイントやお得感は二の次」という自分なりのラインを持とうと思う。

    あちこちにポイントを分散させるよりも、コツコツと一箇所でためておいたほうが、頭も財布もすっきりするし、使いたい時に使えるもののほうがいい。

    こっちはあといくら足りない、こっちはもう少しで使える金額になる・・・。

    もうそんなこと考えるのは面倒臭い。

    実際、残したいと思えるのは、送料や配達時間まで含めて納得できるサービスくらいで、たとえばAmazonのように「ここだけは使う」と決めてしまえば、そのぶん他を考えなくて済むし、購入も楽。

    さらに、どれだけ貯めたポイントでも、そのサービス自体がなくなったり、還元率が下がったりすることがあるわけで、そうなってくると、いつまでも溜まり続けているからお得だとは言い切れない。

    画面の中の数字は増えているように見えても「永遠にお得であり続けるポイント」は前提として存在しないんだから。

    そう考えると、「今、確実に手元から出ていっている時間や注意力」と、「いつか使えるかもしれないお得」のどちらを優先するかという問題には、自ずと答えは出てくる。

    「ポイントやカードを厳選する」というのは単にミニマルな暮らしの話ではなく、自分がどこまでを「コスト」として認識するかの問題でもある。

    レジで出ていくお金だけでなく、支払い方法を選ぶたびに奪われる集中力や、細かい条件を覚えておくための負担も考えるべきだろう。

    その見えない出費まで含めて、自分は本当に「お得」を選べているのだろうか?

    そこまで考えると、惰性でお得を求めていること自体がどうでもよくなってくる。

  • 「完成版」と名付けたプロンプトを結局書き直した理由

    「完成版」と名付けたプロンプトを結局書き直した理由

    プロンプトを保存するとき、何度も「完全版」や「final」という名前を付けてきた。

    そのときは本気で「これで仕事が楽になる」と思っていたし、ようやく形になったという達成感もあり、一区切りついた気持ちになったもの。

    だから「完成版」という名前に迷いはなかった。

    ところが、そのプロンプトを何度か使っていると、不思議なことが起きる。

    最初は満足していたはずなのに、使うたびに気になる点が増えて「もう少し良くできるのではないか」という感覚が生まれ、結局AIに検証してもらい、最適化を始める。

    そして新しいコピーを作り、また修正する。

    いったいいくつのバージョンを作ってきただろう・・・。

    以前は、この繰り返しを「最初の完成度が低かったから」だと思っていたけど、今は少し違う見方をしている。

    そもそも「完成版」という名前は、本当に完成したことを意味していたのだろうか?

    振り返ると、「ここで一度終わりにしよう」という区切りを付けるための名前だったように思う。

    完成を宣言しなければ、いつまでも細部を直し続けてしまう。

    だから「完成版」という言葉で、自分に作業終了を言い聞かせていたのかもしれない。

    しかし、実際に価値が見えてくるのは、その後だった。

    何回か使って初めて、どこで引っかかるのか、どこが足りないのかが分かってくるし、机の上で考えているだけでは見えなかった改善点が、運用を通じて浮かび上がってくる。

    そしてAIの世界では、その前提すら変わり続ける。

    モデルは更新され、得意な表現も変わるし、その進化はもはや止まることを知らない。

    以前はうまく動かなかった書き方が有効になることもあれば、その逆もある。

    そもそもAIが進化しているのだから、プロンプトだけは変わらないというほうが不自然なのだ。

    だから今は、「完成版」という名前を以前ほど信用しなくなった。

    完成はゴールではなく、運用を始めるためのスタート地点なのだと思う。

    プロンプトを作った瞬間よりも、何度か使って見直した後のほうが価値は高いことが多い。

    もし過去に「完成版」と付けたファイルをそのまま眠らせているなら、それは古くなった成果物ではなく、次に育てる素材なのかもしれない。