• 便利になったのに、確かめる手間は残る

    便利になったのに、確かめる手間は残る

    趣味や仕事の調べものをしていて、同じ商品をいくつもの画面で見比べることってありますよね?

    レビューを開き、まとめ記事を読み、公式サイトに戻り、もう一度検索し直す。

    以前より買い物も情報収集もずっと速くなったはずなのに、最後に残るのは

    本当にこれでいいのか?」

    という小さな疑問。

    ネットは、もともと知りたいことにすぐ届く便利な道具として広がってきたと思うのだが、今は、その便利さが絶対的な快適さになっているとは限らない。

    情報は多く、見た目も整い、似たような説明もすぐ並ぶ。

    けど、どれが誰の言葉で、どこまで確かなのかを見分ける作業は、思ったより簡単ではない。

    たどり着くのは早いのに、決めるのは遅い

    ネットが普及する前、知りたいことを探すのには時間と手間がかかっていた。

    図書館に行ったり、店頭で聞いたり、限られたわずかな情報を頼りに、必要な情報を選択していたので、比較の材料そのものが少なかったとはいえ、不安を感じることもなかった。

    今は情報が氾濫しており、意図も容易く入手することができるようになっていて、自分の意図とは無関係に、おすすめが出てきたり、より多くの人々の感想も並んでいて、さらには似たような商品の違いも画面上で一瞬で確認することができる。

    この変化は便利なことは間違いない。

    意思決定するための材料が豊富になり、間違いが少なくなるのだから。

    しかし、それと同時に、決めるまでの確認時間が長くなる。

    比較の材料が増えるほど、どれもそれらしく見えてしまうし、写真がきれいでも、言葉が上手でも、それだけでは判断しきれない。

    結局、最後は「何を信じて選ぶか」という別の仕事が生まれてくる。

    1ユーザの感想や評価を当てにするなら、そのユーザ自身のこれまでのひととなりを追いかけたりすることも出てくる。

    情報が増えたことで選択の自由が単純に広がったわけではなく、むしろ、選ぶために確かめることが増え、選んでいる中で疲れ始め、結局は見送るなんてこともある。

    見た目の整った情報ほど、見分けが難しい

    ネット上の情報は、昔よりずっと見やすくなっており、整ったデザイン、わかりやすい見出し、短く要点をまとめた説明など、必要なものに素早く届くという意味では、大きな進歩と言える。

    ただ、その見やすさが、内容の確かさと同じではないところに、少しやっかいさがある。

    たとえば、レビューが多い商品でも、実際の使用感と画面上の印象は一致しないことがあったり、まとめ記事は便利だとは思うけど、元の情報を正確に捉えているかというとそうでもない記事があったり、広告じみたまとめなんてザラにある。

    昔は情報が少ないぶん、迷い方も単純だったが、今は情報が多いぶん、迷い方が複雑になり、リンクをいくつも開き、戻り、また開く。

    その繰り返しの中で、最初に知りたかったことより「どの画面なら信用できそうか」を探していることも。

    便利さは、確かめる役目を消してはくれない

    スマートフォンひとつで調べものが済むのは、本当に便利。

    思いついたときにすぐ確認できるし、店に行く前に比べることもできる。

    しかし、その便利さは、確かめる作業を消してくれるわけではなく、むしろ、確かめる場面が生活の細かいところへ入り込んでいる。

    • 仕事の資料を探すとき
    • 買い物で新しいサービスを選ぶとき
    • 旅行や予約の条件を比べるとき

    どれも以前より速くできるのに、最後に「これで大丈夫だろうか」と一瞬振り返ることがある。

    そこで必要になるのは、さらに大量の情報ではなく、どの情報が自分の判断に足るのかを見定める感覚。

    この変化は、ネットが不便になったというより、便利になった分、判断の責任が個人に戻ってきたと言ったほうが近いかも。

    検索も比較も簡単になった。

    しかし、納得して一歩進ためには、やはりひと手間かかる。

    「すぐ見つかる」と「すぐ信じられる」は違う

    ネットで何かを探していると、答え自体はすぐ見つかる。

    しかし、見つかった答えをそのまま信じてよいかは別で、ネットにあるものは全てが正しいということではない。

    ここに、今のネットらしさがあります。

    昔は情報を集めること自体が大仕事だったが、今は集めることより、見つけた後の扱い方のほうが難しい。

    目の前に並ぶ情報はどれも有益に見えるのに、どこかで「本当にそうなのか」と確かめ続ける必要がある。

    その状態が続くと、ネットは便利な道具であると同時に、判断を少しずつ消耗させる場所にもなる。

    だから、いまのネット生活で起きている変化は、何かが劇的に壊れたというより、確かめる手順が日常化したことなのかも。

    以前は特別だった慎重さが、いまは買い物でも仕事でも、あたりまえに必要になっており、そう考えると、便利になったはずの画面の向こうで、私たちは以前より少し長く考える必要が増えたのかもしれない。

    便利さの裏で、確かめ方を覚えている

    ネットの便利さは、生活に彩りを与えているけれど、その分、何を信じるかを自分で判断しなければならないことが増えたとも言えます。

    情報が多いからこそ、見た目だけで流されないための小さな躊躇が必要になる。

    すぐ見つかるものほど、すぐには信じきれない。

    そんな感覚を抱えながら、今日も検索欄を開いていくのだろう。

  • なぜ背びれはシャチでなくサメなのか?かっこよさが勝つ瞬間

    なぜ背びれはシャチでなくサメなのか?かっこよさが勝つ瞬間

    手のひらを縦にして、頭の上に突き出してみる。

    スポーツなどでよくみかけるこのポーズ、真っ先に思い浮かべるのは「サメ」だけど、なぜシャチでも、イルカでもないのか?

    背びれのある海の生き物はいくらでもいるのに、「あの形」を見ると、ほとんどの人はサメを思い浮かべるはず。

    おそらく、その元ネタのひとつは映画の「ジョーズ」にあるんだろう。

    海面からひょっこり現れる背びれ、迫ってくる恐怖のイメージ。

    でも、自分の中でサメの背びれは「恐怖」を感じるものではなく、どこか、かっこよさがつきまとっている。

    実際にみたら怖いはずだが、スポーツ選手が手でポーズをする場合は、「かっこいいポーズだ」と思ってしまう。

    しかし、この「かっこいい背びれ」、冷静に考えると不思議なもので、実際の海だと、背びれを持っているもので強いのは、サメよりもシャチなはず。

    観点を変えて「かわいい」で言えば、イルカのほうが断然愛されている。

    それでも、背びれのイメージが強いのはサメだ。

    サメはシャチよりも弱いくせに、なぜかかっこいいし、デザインとして使えるよね、とさえ思う。

    そもそも自分がサメを知ったのは小さい頃で、絵本やテレビ、おもちゃの世界で「サメ」は早くから顔を出していた。

    一方「シャチ」の存在を知ったのは、もっと後になってから。

    図鑑や番組で「実はシャチの方が強い」と知った時には、ちょっと落ち込んだものだ。

    とはいえ、そのときにはすでに「背びれの形」はサメのものとして、頭の中にインプットされているから、そこからシャチのイメージへと変わることはない。

    「危険」という観点からみても、自分の中では、サメに対して「危険」という感覚はなく、サメの背びれを見ても「襲われる」「危ない」と身構えるより先に「クール」「シャープ」という印象が立ち上がる。

    人がサメを象徴するポーズとして手のひらを頭に翳すのはかっこいいし、Tシャツなんかもシャチよりもサメのほうが断然クールに見える。

    つまり「象徴の座の取り合い」は、強さやかわいさではないのだろう。

    強さでいえばシャチ、かわいさでいえばイルカ。

    それなのに、背びれという記号はサメがしっかりと押さえている。

    「強さ」と「かわいさ」の両方で劣っているにも関わらず、なぜかサメには「見た目の勝利」があるのだろう。

    まぁ、巨大でどっしりしたシャチより、シャープなフォルムのサメのほうが、ロゴやポーズにしやすいし、かっこよさを象徴することができますからね(強いうえに賢いシャチは、過小評価されすぎという声も・・・。)

    「背びれのイメージはサメ」というのは、数字や生態には一切関係ない。

    そこにあるのは、ポーズを真似したときのクールさや、プリントTシャツを見たときの「これはサメだとわかる」安心感。

    海面に突き出た三角形を見た瞬間「サメ!」と即答できる感じ。

    本当は、自分が知らないところで、シャチの背びれがもっと活躍しているのかもしれないし、サメがかっこよく見えるのも、単に自分がそういうデザインを好むだけだからかもしれない。

    それでも、手のひらを頭に立てたとき、最初に浮かぶのが「サメ」というのは、多くの人の感想なのではないだろうか?

    なんだったら、映画「ジョーズ」の音なんかを付け足したくなるし。

    「サメは弱いくせにシャチよりもかっこいいし、デザインとして使えるよね」と思ってしまう、この小さなねじれ。

  • 待つ側から追う側へ、変わった作業の構造

    待つ側から追う側へ、変わった作業の構造

    AIで自分の仕事を楽にしようとタスクを作り、AIに投げる。

    使えるタスクを日々のスケジュールに入れておけば、時間ごとにAIはアウトプットを投げ続けてくる・・・。


    アウトプットはすでに出来上がっている。

    それを確認し処理し終わると、次のアウトプットが積み上がっている。

    そんな一日を続けているうちに、ふと気づいてしまう。

    自分は今日、席をほとんど離れていない・・・。

    AIがまだ存在していない頃、一つの作業が終わったら一息入れ、コーヒーでも作って飲んでいたのに。

    AIとの役割分担そのものは、はっきりしており、作るのはAI、最終確認するのは自分。

    これは決めた通りに進んでいるし、なんなら普通の人よりも結構上手にやれていると思っている

    なのに、自分のパートが「AIを待たせている遅れ」のように感じられ、楽して効率よくやるために使っているのに、逆に自分の時間が手一杯になっている。

    もちろん成果物としてのレベルと量は、これまでと比べると3倍以上のものにはなっているけれど・・・。

    おかしな話だ。

    分担が崩れているわけではないのに、なぜ遅れている気持ちになるのか。

    その理由をたどっていくと、納期を考えると遅れているのではなく、ただただ、AIの作業量に人間が追いついていないのだ。

    人間側の作業時間は、以前とまったく変わっていない。

    確認にかかる一件あたりの、時間も判断の質も劣化していないし、AIのおかげで別の新たな視点も生まれているから、クオリティがアップしながら、かけている時間は変わっていないと言える。

    変わったのはただ一つ。

    確認すべき件数の量で、AIがない時代なら、一つ作業を終えれば少し息をつけた。

    今は、一つ終える間に次が積み上がっていて、席を離れることすらできないし、一息つこうと思える瞬間が生まれてこない。

    ここで、比較の対象がずれていることに気づく。

    人は「AIの速さに人間の速さが追いついていない」と感じがちだけど、実際に起きているのは、速さの勝負ではなく、AIは自分のタスクを、こちらの都合とは無関係にこなし続けているだけで、待たせているつもりも急かしているつもりもない。

    急かされているように感じているのは、こちら側が、自分の処理能力ではなく、AIの生産量を基準にして自分を測ってしまっているからだ。

    人間同士の分担であれば、こうはならない。

    むしろ待ちのほうが多かったはず。

    誰かの作業が終わるのを待って、自分の番が来る。

    これはアマチュアレベルのキャッチボールを行っているという感じ。

    相手が、野球したことのない人だったり、小中で野球やっていました、草野球を今やってます、というような人ばかり。

    ところがAIが相手になった途端、待つ側から、常に追う側へと立場が入れ替わる。

    先のキャッチボールに例えると、相手がアマチュアレベルから、一気にプロ野球選手に変わったような感じ。

    しかも、こちらが投げ返す前にどんどん投げてくる・・・。

    もちろんそのタスクを生み出しているのは、ほかでもない自分自身だという点が、この状況をさらにねじれたものにしている。

    AIが賢くなるほど、こなせる量は増えるし、アウトプットの質が高くなる(AI登場時のおバカ加減が懐かしい・・・)。

    それは同時に、人が確認すべき量が増えるということでもあり、AIは人を楽にしてくれる道具のはずなのに、気づけば人を追い込む側にもなっている。

    この二つは矛盾しているようで、実際には同じ現象の両面にすぎない。

    「AIを使えば楽になる」という前提は、半分しか合っていない。

    楽になるのは、一件あたりの作業ではなく、楽になった分だけ、捌可なければならない件数が増える。

    仕事の内容も軽くなるのではなく、単純に密度とスピードが上がり、そのことに気づかないまま作業していくと、いつかパンクしてしまうかもしれない。

    なので、自分のなりのバランスとペース配分を自分で作り出さなければならない。

    AIに合わせようとしても潰されるだけだから・・・。